13日!「古写真と江戸図屏風でめぐる江戸城」
2014年 07月 07日
7月13日(日)は、「古写真と江戸図屏風でめぐる江戸城」です!
現代の皇居、皇居周辺には足を運ばれたことのある方が多いと思いますが、さて、その皇居を「お城」として意識されたことはあるでしょうか。
ご存知・江戸城は、15世紀半ばに太田道灌が、日比谷入江に面する台地の端に自然の地形を利用して作ったお城です。
こちらその、有楽町の太田道灌さん。
当初は関東地方に数ある小さなお城の一つだった江戸城に、徳川家康が入城。
江戸幕府が開かれ、以降、家康・秀忠・家光の三代にわたる大普請を経て、世界最大規模の一大城郭となりました。
現在は、内堀の中は皇居と公園などに。観光客や散歩をする人も多く、まさに緑豊かな都会のオアシスといった感じですね(^^)
でもね!!!
「城は戦闘のためのもの。
殺人兵器であり、防衛ラインなんです!」
と、今回の散歩会のナビゲーター<城跡・古戦場ウォーカー>のサイガさん。
パックス・トクガワーナな江戸の中心・江戸城にも、ちゃ~んと敵が来たらすぐにでも迎え撃てるような備えと、防衛のための工夫がされているのです。
例えば城内の随所に見られるこの出っ張り。
あそこからスナイパーが敵を狙います。 世界共通のお城の標準設備なんだとか。
築城に天然の高低差を利用したのは、太田道灌さん。
最初は北から延びる台地の先端、岬になっている部分に江戸城を築きました。
そのため、城内に自然の傾斜があります。
西側は台地。東と南は海。
という状況でさらに北に深い深~いお堀を作ることで、全方向、敵からの守りを完璧に。
この堀の深さですよ!! どーん!!(p`・ω・´q)
この絶壁のお堀が、北側には二重にあるんです。
どれだけ深いかは、モチロン13日にお確かめください!!
そしてもう一つ。外堀と内堀の間の空間に注目!
江戸城をぐる~っと「の」の字に取り巻く外堀は、総距離15キロ以上に及ぶ大きなお堀。
なのですが、九段下から竹橋にかけてのこのあたり、内堀と外堀の間がとても狭くなっているのです。
(外堀は埋め立てられたり上に首都高が作られたりして全区間は残っていません。この部分は、首都高のラインが外堀です)
これも実は、防衛上の一工夫なのだとか。
ちゃらぽこ散歩会では「外堀・古地図散歩」を始め過去に何度かこの付近を散策したことがありますが、ここだけ外堀と内堀の距離がものすごく近いのを不思議に思っていたんですよねぇ~。長年のギモンが解けました~!!(^0^)
さてさて、でもね。
道灌のころは海に突き出た岬状の土地だったこの場所ですが、江戸時代を通して南も東も埋め立てられて陸地が広がったんですよね。それじゃ、天然の要害ではなくなってしまったんでは……!? 東からも南からも攻め放題!?
徳川の時代は平和だったから、敵に対する備えもそれほど重要ではなくなったの??
と素朴なギモンぱきら。
でも、そうではないそうです!!
「平和な時代で武士は戦を忘れていた」と薄っすら教わったような気がする江戸時代全般を通して、江戸城は戦争に対する備えを怠ってはいなかったのだとか。
最終的には「無血開城」で江戸幕府は終焉にいたりますが、幕府が弱体化していたからというだけではなく、交渉にあたった西郷隆盛としても、江戸城を相手に戦うのはリスクが大きすぎるので避けたかったんだそうです。
もしも江戸での決戦があったら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
(江戸ごと消滅して、東京はなかったかもしれませんけどね……)
とまぁそんなこんなで、「城」としての江戸城を探る今回の散歩会ですが、往時を想像する手掛かりとして、古写真と江戸図屏風を元にご案内いたします。
和田倉門から江戸城内へ入れば、まずは和田倉曲輪。江戸城から飛び出した、入り口の部分。外側は現在は道になっていますが、昔はお堀でした。
ちなみに隣の、東京駅から真っ直ぐに入る行幸橋は、大正時代に軍隊のために新設したもの。
江戸図屏風を見ると昔からあったものと後から出来たものがハッキリ分かります(^o^)
見比べながら歩くとおもしろい!
たとえばココも! 違いが分かるかな!
櫓がないのはすぐに分かりますが、堀の形もちょっと変わっているんです。
13日に確かめてみてくださいね!(^o^)
中の門。
この形の門は江戸城内に今でもいくつか残されています。
今は石垣だけになっていますが、昔は上に建物の乗っていました。
古写真を見ると、ホントに「門!」って感じです。
13日の散歩会当日は、写真と比べてご案内いたします。
北側の、現在は武道館や現代美術館のある一帯。ここは、道灌の時代にはなく、江戸幕府の時代になってから拡張された部分です。御三卿の清水家と田安家のお屋敷がありました。
田安家の跡の大銀杏。この銀杏の根元が昔の地面の高さだそうです。
そして天守台。
天守閣は、1650年代の明暦の大火で焼けてしまい、その後は江戸期を通して再建されませんでしたので、実際にはほんのわずかな時間しかありませんでした。
今は立派な石垣の台のみですが、江戸図屏風には五層の立派な天守閣が描かれています。
ところでワタシ、江戸城の見方を間違ってました。
現在の皇居が西側半分にあるので、なんとなく西側がメインのような気がしてしまうのですが、江戸城の核はこちらなのですよね。
古写真や絵を頼りに往時のお城に思いをはせてみれば、そんな当たり前のことも新鮮に実感できます。
江戸城や江戸の街の見方がちょっと変わるかも!
13日の「古写真と江戸図屏風でめぐる江戸城」散歩会で、東京のど真ん中にどっかり残っている大きなお城を見にいきませんか?(^0^)
現代の皇居、皇居周辺には足を運ばれたことのある方が多いと思いますが、さて、その皇居を「お城」として意識されたことはあるでしょうか。
ご存知・江戸城は、15世紀半ばに太田道灌が、日比谷入江に面する台地の端に自然の地形を利用して作ったお城です。
こちらその、有楽町の太田道灌さん。
当初は関東地方に数ある小さなお城の一つだった江戸城に、徳川家康が入城。
江戸幕府が開かれ、以降、家康・秀忠・家光の三代にわたる大普請を経て、世界最大規模の一大城郭となりました。
現在は、内堀の中は皇居と公園などに。観光客や散歩をする人も多く、まさに緑豊かな都会のオアシスといった感じですね(^^)
でもね!!!
「城は戦闘のためのもの。
殺人兵器であり、防衛ラインなんです!」
と、今回の散歩会のナビゲーター<城跡・古戦場ウォーカー>のサイガさん。
パックス・トクガワーナな江戸の中心・江戸城にも、ちゃ~んと敵が来たらすぐにでも迎え撃てるような備えと、防衛のための工夫がされているのです。
例えば城内の随所に見られるこの出っ張り。
あそこからスナイパーが敵を狙います。 世界共通のお城の標準設備なんだとか。
築城に天然の高低差を利用したのは、太田道灌さん。
最初は北から延びる台地の先端、岬になっている部分に江戸城を築きました。
そのため、城内に自然の傾斜があります。
西側は台地。東と南は海。
という状況でさらに北に深い深~いお堀を作ることで、全方向、敵からの守りを完璧に。
この堀の深さですよ!! どーん!!(p`・ω・´q)
この絶壁のお堀が、北側には二重にあるんです。
どれだけ深いかは、モチロン13日にお確かめください!!
そしてもう一つ。外堀と内堀の間の空間に注目!
江戸城をぐる~っと「の」の字に取り巻く外堀は、総距離15キロ以上に及ぶ大きなお堀。
なのですが、九段下から竹橋にかけてのこのあたり、内堀と外堀の間がとても狭くなっているのです。
(外堀は埋め立てられたり上に首都高が作られたりして全区間は残っていません。この部分は、首都高のラインが外堀です)
これも実は、防衛上の一工夫なのだとか。
ちゃらぽこ散歩会では「外堀・古地図散歩」を始め過去に何度かこの付近を散策したことがありますが、ここだけ外堀と内堀の距離がものすごく近いのを不思議に思っていたんですよねぇ~。長年のギモンが解けました~!!(^0^)
さてさて、でもね。
道灌のころは海に突き出た岬状の土地だったこの場所ですが、江戸時代を通して南も東も埋め立てられて陸地が広がったんですよね。それじゃ、天然の要害ではなくなってしまったんでは……!? 東からも南からも攻め放題!?
徳川の時代は平和だったから、敵に対する備えもそれほど重要ではなくなったの??
と素朴なギモンぱきら。
でも、そうではないそうです!!
「平和な時代で武士は戦を忘れていた」と薄っすら教わったような気がする江戸時代全般を通して、江戸城は戦争に対する備えを怠ってはいなかったのだとか。
最終的には「無血開城」で江戸幕府は終焉にいたりますが、幕府が弱体化していたからというだけではなく、交渉にあたった西郷隆盛としても、江戸城を相手に戦うのはリスクが大きすぎるので避けたかったんだそうです。
もしも江戸での決戦があったら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
(江戸ごと消滅して、東京はなかったかもしれませんけどね……)
とまぁそんなこんなで、「城」としての江戸城を探る今回の散歩会ですが、往時を想像する手掛かりとして、古写真と江戸図屏風を元にご案内いたします。
和田倉門から江戸城内へ入れば、まずは和田倉曲輪。江戸城から飛び出した、入り口の部分。外側は現在は道になっていますが、昔はお堀でした。
ちなみに隣の、東京駅から真っ直ぐに入る行幸橋は、大正時代に軍隊のために新設したもの。
江戸図屏風を見ると昔からあったものと後から出来たものがハッキリ分かります(^o^)
見比べながら歩くとおもしろい!
たとえばココも! 違いが分かるかな!
櫓がないのはすぐに分かりますが、堀の形もちょっと変わっているんです。
13日に確かめてみてくださいね!(^o^)
中の門。
この形の門は江戸城内に今でもいくつか残されています。
今は石垣だけになっていますが、昔は上に建物の乗っていました。
古写真を見ると、ホントに「門!」って感じです。
13日の散歩会当日は、写真と比べてご案内いたします。
北側の、現在は武道館や現代美術館のある一帯。ここは、道灌の時代にはなく、江戸幕府の時代になってから拡張された部分です。御三卿の清水家と田安家のお屋敷がありました。
田安家の跡の大銀杏。この銀杏の根元が昔の地面の高さだそうです。
そして天守台。
天守閣は、1650年代の明暦の大火で焼けてしまい、その後は江戸期を通して再建されませんでしたので、実際にはほんのわずかな時間しかありませんでした。
今は立派な石垣の台のみですが、江戸図屏風には五層の立派な天守閣が描かれています。
ところでワタシ、江戸城の見方を間違ってました。
現在の皇居が西側半分にあるので、なんとなく西側がメインのような気がしてしまうのですが、江戸城の核はこちらなのですよね。
古写真や絵を頼りに往時のお城に思いをはせてみれば、そんな当たり前のことも新鮮に実感できます。
江戸城や江戸の街の見方がちょっと変わるかも!
13日の「古写真と江戸図屏風でめぐる江戸城」散歩会で、東京のど真ん中にどっかり残っている大きなお城を見にいきませんか?(^0^)
by osanpocafe | 2014-07-07 20:08 | お知らせ・イベント案内